昭和43年11月16日 朝の御理解
御理解 第8節
「子供の中に、屑の子があれば、それが可愛いいのが親の心じゃ、無信心者程、神は可愛いい、信心しておかげを受けて呉れよ。」
人情の(機微)とでも申しましょうかね、親子の情とでも申しますか、そうゆう(機微)をとらえて、御理解下さってありますねえ。「子供の中に屑の子があれば、それが可愛いいのが親の心じゃ」。ここに天地の親神様の、お心と言うのを、そう言う風に教えておられます。ですから「無信心者ほど可愛いい」お前の様な奴はもう勘当だ、お前の様な奴はいらんと、お前のような奴はつまらんと、と言う風に例えば親不孝な子がおれば、親不孝であればあるほど、親の情と言うものは身につのるものね。
今頃あの子はどうしておるだろうか、食べるものだん食べよるじゃろうか、寝る所はあるじゃろうかと言うて、例えばもうお前はいらん勘当だと言いながらも、やはり夜の眠られない様な夜なんかは、取り分けそれを思う考えるのが親心だと。そこでそう言う親心を、私共が悟らせてもろうたね。そう言う神様の思いを悟らしてもろうて、いわば「信心しておかげを受けてくれよ」と仰るのだからね。信心しておかげを受けていく、例えば親の言う事を聞かんね。
親の思いには添わない、もうあん奴にはかまわんと言いながらも、やはりそれが親の心だとね。そこんところを一つお互いが分からしてもろうての信心ね。そう言う神様の思いを分からしてもらい、悟らしてもろうての信心、信心しておかげを受けてくれよね。だからやはり信心しなければ、おかげが受けられんのであるね。言うならば親子でももうお前の事は知らんと例えば、今は言うておってもそこからね。
またその子供が、親の心が分かって、親の元に帰ってこなければ本当の親子の幸せはない様に、私共がそう言う中から信心しておかげを受けて初めて、親子の助かりがあり、神様も助かって下さり、私共も助かっていく事が出来ると言うのである。そこでで私この八節から思われる事ですね、「そこで屑の子があれば」とこう仰るそこでなら私共が先ずはひとつ屑の子の自覚に立たたせてもらうね。いわゆる私の様な者がと言うのへね、教祖様は、そこを無学の百姓でなんにも分らんとこう言うておられる。
私共もどうでもそこんところを一つ、本気で分からしてもらう、本当に私の様な者がと言う事はね、私のような者がいわゆる、障子一重がままならぬ人の身である事を一つ自覚、本当に分らなければいけない。そこからなら信心が始められる、もうあなたのおかげを受けなければ立ち行かん私だとね。まあだ私には出来る事があると言った様な間は、私はここの第八節の本当の真意に添う事は出来んと思う。いわゆる神様が信心しておかげを受けてくれよと仰る、そのおかげには触れていけないと思う。
屑の子の自覚そこからいうなら「信心しておかげを受けてくれよ」と仰る、信心をする事によって、どう言うものが生まれてくるか。私の様な者がね。私の様な者の心の中に、今度は反対にもりもりとね。元気な心が湧いてくるファイトが湧いてくるね。そこから生まれてくるのが絶対信であるね。もうそれは似ても似つかない心である「吾、屑の子」私のような者がと言う心とは似ても似つかない心である。私の様な者がと言うだけであったら、人間が卑屈になります。
もう自己嫌悪にかかって、もうそれこそこの世がいやになります。私の様な無能な者、私のような無力な者私のような者が、もうこの世に生きておって、なんの楽しみがあろうかと言う事になってくるね。そこに信心がある。無能の私くしであると言う自覚からね。神様のおかげを頂けばね。どの様なおかげでも受けられると言う、信の力が湧いてくるね。信心の信のいわゆる、信心をしなければ頂けない信心の信の力が湧いてくる、信の力が頂けてくる。
「信心しておかげを受けてくれよ」ね。ここからこのおかげは、もう無限大のおかげにつながっていくね。幸せになれんはずはない、おかげが頂けんはずはないね。そう言う強い心がそこから頂けてくる。ですからこの御理解はいわゆる、いうなら人情の機微をとらえて私共の信心をうながして下さってあるですね。ですからこの御理解の中から頂かねばならん事は、まず屑の子の自覚に立たしてもらうと言う事ね。われ無能無力であると言う事を本当に分からねばいけない事ね。
そしてそう言う心ですね。いよいよ信心をしなければならない事、そう言う心で信心をするところにですね。、言うならば神様任せにならねばおれんのであるね。自分の考えを捨てきってしまう。いわゆる神様任せの信心がそこから生まれてくるのであるね。そこから私共がどう言う事を悟るかと言うとですね。「氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになる」と仰せられるが、なるほどそうだなあと言う体験が生まれてくる。
私共が神様本位になれば、神様の方が氏子本位になって下さると言う事実をです、体験していく事が出来る。しかもその神様は無限の働きと力を持ってござる神様であると言う事なんね。「信心しておかげを受けてくれよ」と、信心して受けるおかげというものは、どう言う所かというとね。いよいよ神様の絶対、いわゆる神様の間違いなさと言うものを、ひしひし自分の心に頂いていく事が出来るね。ここに信心の偉大さと言うか、尊さと言うのがある訳です。
自分の様な無能な者が、無力な者がと言うだけであったら、これは人間が卑屈になるだけね。そこから神様におすがりをする、そこから信心してとこう仰る、信心しておかげを受けていくそのおかげというものはね。この神様におすがりさえしておけば、この神様にお任せになっておけばおかげが受けられると言う信の力が心の中に、いわばもりもりと頂けてくる。そこに人間がですね、言わば二人見る様なこの状態というですかね。いわゆる信じ求められる事を信じ、それは神愛の信ずるですね。
親の心を信ずる神の思いを分かり、信ずる事であるその神様の絶対 愛を信じて生活が出来るところに、心強いもうもう安心の信心生活が、まあ営まれてくるのです。そこで私は思うのですね、その吾屑の子と言う事と、信心によって次に生まれてくる絶対信と言うのはいわば、似ても似つかない心、それは天地程に違う心ね。日月程に違う心御理解第七節の中にありますよね。
「天地日月の心になる事肝要なり」とこう仰せられるね。信心させて頂いて段々段々おかげを頂いて、この天地日月の心が自分の心の中に頂けてくる様になる、言うならば天の心と地の心、言うならば陰の心と陽の心、陰陽ね。言うならば男の心と女の心、そう言う心が私の心の中に、言うならば男の猛々しい心と、女のですね。いわゆる柔らかい優しい心とがここに出来てくる。
それを私は天地日月の心だとこう思う。だからどちらが欠けてもいけないのである、天地日月の心になること肝要なりである、天と地が一つになって喜びあう、言うなら神も喜び氏子も喜び、金光大神もの喜びじゃと、こうそう言う言わば、おかげの展開がそこから始まっておるね。天の心地の心ね。天地が一つになって喜び合う時、鶴亀の舞い遊ぶ様な目出度いおかげにもなってくると仰るです。
昨夜御祈念に合わせて、前々からお願いがしてございました末永さんの、おじいさんに当たります、壱岐の教会で初代教会長の、四十年の式年祭が壱岐の教会で仕えられる、で、自分も本来ならおかげを頂かなければならんのですけれども、現在まあ修行の身分としては、なかなかそげなことは出来ませんからね。こちらからこちらでまあささやかなお祭りをして頂きたいという願いを、まあ持っておった本当にこの一心と言うか、真心と言うか、そう言う思いで大変おかげを頂いておりましたが。
もう昨夜は思いもかけない有難い賑やかな、誰にいうわけじゃない、けれどもそのおかげを頂いておる、いつ私共がじいさんのあれをするから、夕べ話したことでした、はあこれだけのお祭りが出来るなら、いっちょあの松栄会の連中だけぐらいには言うときゃよかったのに、そしたら皆がお神酒の一本づつでも、さげてくるとじゃったろち言うた事でしたけれどもね。誰に言うわけでもない、ただお取次を頂いてお願いをし、一心にただおじい様の御霊様に喜んで頂きたいという一念がですね。
お金がねあっちこっちから七千円か、九千円ち言うたかねが集まってきた。それでお供えものを買わせた頂いた。この頃からもうしきりにこの霊神様の方へ、御神飯にネズミがくる、そこでそのお願いをした、ネズミが毎朝晩それで奉仕いたしますから、おじいさんの御霊様にお願いしようと思うてね。そのおじいさんの霊様にですね、いわゆる初代の壱岐の教会であるところの、おじい様にお願いさせて頂いた日から、ネズミが来んようになった。もういよいよそこから信ずる力が生まれてきた、御霊様がよね。
霊様が働いて下さる事が分ってきた。その霊様へ対してお礼を申し上げさせてもらう信心が一生懸命、いわば、昨夜のお祭りにかけられた。叔父さんであるところの古屋さん夫婦と、それから、自分の妹が福岡に勤めておりますから、それだけには言うてあったらしい夕べみえましたね。それで本当に大変有難いお祭りが出来ました。私が奉仕をさせて頂きながら、普通の御霊様のお祭りは本当に御霊様が生き生きとしてきなさる、御霊様が喜びなさるだろうと言うお祭りであった。
ところがその御霊のお祭りを受けたから有難いとか、嬉しいとかと言うのでなくて、そのお祭りを奉仕して頂かなければ、仕えて頂かなければおられんと言う、言わば孫の信心の成長を喜ばれたと言う感じのお祭りであった。普通の御霊様ならばね。遺族の者が本当こうやって、日頃は、なら、おいしいものも頂かんのに、今日ならおいしいものが頂けたと言うて喜びなさる感じなんです言うならば、ところが、夕べのお祭りは、そうじゃない、孫の信心の成長を喜ばれたと言う感じのお祭り。
昨日の朝の御祈念の後に、久留米の佐田さんが御神眼に頂いておられるのが、扇子を逆さにした様な、お知らせを頂かれたね。例えば白扇を逆さにするとどう言う事になりますかね、白扇を逆さに見るや富士の山と言うですね、富士の山のようになります。その富士の山の白扇を頂いてです、その要の所をですね、要のところをしっかり親先生が握っておられると言うお知らせであったね。
白扇を逆さにして要のところをしっかり親先生が握っておられる、その佐田さんが受けられたであろうという、まあいうなら同じ御心眼を私は昨夜そのお祭り中に頂いた。それで私叔父さんの古屋さんに申しました。最近は先日から、またのお父さんがみえてから、いわゆる壱岐の教会長先生がみえてから、もう学院にも入れたい、うちに帰ってきて欲しい、また親教会の関係の手前もある。手続き違いのいわば合楽に来ておると言う事はやっぱり親として気がねなのだ。
そう言う様な細々の事があって、まあ帰して欲しいと言うものがあるね。所がもう本人は絶対お父さん、私は別に教師になろうと思うとる訳じゃなかって、ただ僕自身が助かる事の為に僕は合楽からはずれん、もうその一言にもうあんたがそれ程言うならば、もう自分がどう言う不利な立場にあったっても、もうあんたには言うまいと言う様な事で一晩泊まって帰られた。まあどうぞよろしくお願いしますというて帰られた。
そう言う中に信心をいよいよ、信心のいわばに奥処に奥処とこう進まして頂いている訳なんです。言うならば「白扇をさかさに見るや富士の山」、願いは本当に富士の山を目指しておる、けれども富士の山は下の方へ広がっておる、上の方には広がっとらん、いわゆる、根の方へ根の方へ信心させて頂いてですね。信心させて頂いて言わば、困った事になったり、難儀な事になったり信心がいよいよ佳境に入ってくると、もういよいよ信心しておって、どうしてあの様な事になってくるじゃろうかと。
周囲の者が思う程になってくるけれども、そのころにはもういよいよ、頂上をを極めている様な気持ちですからね、視野が広うなってきておるから、その事が有難うしてたまらんごとなってくるね。その事、私昨日古屋叔父さんの古屋さんにも申しました。先日古屋さんもあるあるというか、福岡の教会関係のなんか会合に出られてからね。出来るならば、長男の末永勇先生が郷ノ浦と言う所に、今の現在の親教会からいわんばっかり、あの奴は田舎の町に布教に出ておる新たに、ち言う事を言われたらしい。
それで教会としてもあれだから、お前帰ってやらんかも、古屋さんもやっぱその気持ちなんですね。ところがなら本当に極めるものは、極めなければと言うこちらの気持ち、ですから私がとにかく本人もこう言うておるのですからね。もうこの白扇の逆さにちょうど似ておるような状態だけれども、古屋さん肝心要の所を私が握っておるから大丈夫、もう暫く預けて下さいと私がね。
この後が素晴らしい、佐田さんが頂いておられるのはね、ここの肝心要のところを握った上のほうばこうやってなっとろうが、こんな風になっておる、ね、白扇を逆さにすると、上のほうは今度はまたこげんなっとるじゃろう、これはもう、いよいよ無限大に、繋がるものですね、これだけ広がっていく、肝心要の上のほうから、広がっていくのが、これはもう無限大に、今度は、いわゆる、富士、白扇を今度はまたの持ったようにです、いよいよ末広のおかげになっていく訳なんです。
だから本当にですね、おかげを受けると言うのは、この白扇の逆さまにした徳を受けるような徳を受ける、その肝心要のところがしっかりして、そこから広がって行く所の無限大のものでなからなければ本当のおかげじゃないと私は思うですね。そう言う例えば、おかげを頂いていくところにです、私共の信心の内容にどう言うものが生まれていきよるかと言うと、吾屑の子の自覚がいよいよ出来ていき、そしていよいよ神の思いを分らしてもろうてね、「信心しておかげを受けてくれよ」と仰る。
その信心がいよいよ出来ていく。そこから受けていくところのおかげ、そこから頂けるところのおかげを、ここでは「おかげを受けてくれよ」と仰るのはそう言うおかげだったでしょうね。信心してさぁすぐお前達のいい思うごとのなるおかげを受けてくれよと言うのじゃない、もう無限大と言う事は、もう思い以上と言う事なんだ。それには肝心要のところがいる。肝心要のところは金光大神が握ってござる、親先生が握ってござるかぎりはです、バラバラになるような事はない。
古屋さんそこんところをひとつ分かって欲しいと、私は昨日申しました様にですね。そこで私は改めて申します事ね。もう亀の背中にあればもう絶対、竜宮城だけは間違いない言うならば、神様任せになって( ? )事は、親先生任せになっておきゃ絶対おかげになる、けれども自分の思う様にならない事は、もうおかげでない様に思うて、神様任せになりきらん、神様を自分任せにしょうとする心が強うなる。
お野菜ならお野菜を例えば作らしてもらうのに、初めの間は何も任せて頂く、お金を作らして頂こうかと言うてお願いをしながらね。はぁお願いをして頂いたら、今度はとても高く売れたと、そちらをおかげおかげと言うておるけれども、そのお願いをして作らせてもろうたものが安うどもなると、これは親先生任せだけじゃいかん。こちらの都合よかつを作ろうごとなってくる、そして何々ば作らいますけん、どうぞよろしゅうと言う事になってくるですね。
とても神様任せじゃないでしょう、神様が自分任せにしょうとしておるでしょうが、一事が万事にそうなんです、自分の心の中には、もう麦のほうがよいっちもう八分も九分も思いながら教えを伺うとる、だから自分の思うとうりに神様がしたらもう白紙になって、そこに、いわゆる自分が吾無力であると言う本当の自覚に立ってね。どうさせて頂いていこうかと言う事になりゃもう、大坪総一郎私ならこうすると言う所をはっきり、言うてあげる事が出来るけれどもね。それが言うてやれない。
結局本当の自分の無力であると、言う事が分っとらんから、吾屑の子であると言う自覚に立ってないからなんです。なんにも無能の私であるのですから、手を引いてもらうより他に仕方がない言うところまで行ってね。手を引いてもらわならん。手を引いてもらう中にはです、亀の背にある時にはです、波が荒い事もあろう、あらっこのまま沈んでしまうのじゃなかろうかと、言う事もあるけれども、さあいよいよ亀の背中に、しがみついてさえ行きゃです。
絶対竜宮城だけは間違いないのだけれども、そこら辺がすっきりしないでおかげが暇がいるね。又はおかげが受けられない。私共の心の中にですね吾屑の子と言う又は神様おかげのね。氏子神様任せになりゃ、神様が氏子任せになって下さると言う絶対信ね。その信がいうなら私は天地日月の心とは、そう言う心だというふうに申しましたね。天と地が一つになるね陰と陽が一つになるね。
その喜び合う中から生まれてくるもの喜びおうて、そこから生まれてくるもの、これは無限大のおかげにつながるものね。どちらの心から一つだけ、天なら天の心地なら地の心だけじゃ生まれてこない、自分の心の中に陰と陽が一つにね。心の中に陰と陽の心が頂けれる、天の心地の心がここにある。天地日月の心になる事肝要なりとね。天と地が喜び合うそこに鶴亀の舞い遊ぶ様なおかげとね。
いわゆる神も喜び氏子も喜び、肝心要のところを握って下さっておる金光大神もの喜びと言う事になるのであるね。御理解八節から今日はその様な事を感じましたね。そこんところをひとつ大事にしてただ人情の機微を以って、説いてあると言うだけであっては、ただなる程と合点がいくだけ、けれどもそこのところを今日の様な風に頂いてみますとです、これはいよいよ屑の子の自覚と言うものを。
自分で悟らにゃいけんなあ、なる程自分は力がないんだなあと言う自覚を作って、そこから神様に縋らなければ、おかげの頂けない自分であると、言う信心が出来てくる。そこからいよいよ強いものね。陰の心陽の心そう言う心が、自分の心の中に一諸に同居していく、これが二つが一諸になって喜び合う時、そこから生み出されてくるところのおかげを、ここでは「信心しておかげを受けてくれよ。」と仰るのは、そう言うおかげであると私は思うのです。
どうぞ。